ヤギの餌にもならない生活
2022-06-14T18:56:25+09:00
daiki1978
地方劇団代表兼放送作家の徒然雑記
Excite Blog
最近のお仕事
http://yaginoesa.exblog.jp/31755691/
2022-06-14T18:56:00+09:00
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daiki1978
無題
現在進行形のいわゆるレギュラー仕事。
見かけたら観てやってください。
この他、単発仕事もいろいろやらせていただいております。
RAB
◎初耳@AOMORI
(毎月第2日曜 17時)
◎1550ニュースレーダーwith
(月~金曜15時50分)
・津軽伝統人形劇 金多豆蔵劇場
・あたらしいむがしコ
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はい、そういうわけで白Aを六戸に観に行きましたわけなんですけれども
http://yaginoesa.exblog.jp/29279054/
2019-02-26T18:16:00+09:00
2019-02-26T18:16:34+09:00
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daiki1978
日記
『大人から子供まで楽しめるエンターテインメント』
なんと空虚なコトバだろう。
何か語っているようで何も語っていないコトバというモノがこの世には満ち溢れてるけれど、こうしたコトバもその仲間だ。
だって実際そんなもの見たことないし。
しかし、だ。
いざ実際に『それ』を見せられると、これはもう何も言えない。
そう、あるんですよ『大人から子供まで楽しめるエンターテインメント』が。
より正確に言うと、『大人から子供から物事を斜めに見るくせに基本的に集中力のないめんどくさいおっさんまで楽しめるエンターテインメント』が。
さらっと対象に自分を紛れ込ませたところで、詳しい話に入ろう。
『白A』という集団をご存じだろうか。
Wikipedia大先生によると、このようになる。
白A(しろエー)は2002年10月に宮城県宮城広瀬高等学校の同級生を中心に仙台市で結成された、「テクノデリックコメディー」を標榜するエンターテインメント集団である。SIRO-Aと表記されることもある。アミューズ所属。「テクノサウンド」と「映像」と「人間」の融合を表現する次世代型エンタテイメント集団。
2002年東北・仙台で結成。 2011年に、世界最大の演劇祭「エディンバラ・フェスティバル・フリンジ」にて1ヶ月の公演を行い、『Spirit of the Fringe2011』を受賞する。 2012年にはドイツ・デンマーク・オーストリア・フランス・スイスの5カ国を周るヨーロッパツアーを実施。 2013年は、ロンドンにて、155日間に及ぶロングラン公演を行った。 2014年はドイツ・アメリカツアー、そして全117公演に及ぶロンドンロングラン公演を行い、 「London Cabaret Award」 のBest Circus/Speciality Act部門を受賞した。
2015年、アメリカの国民的オーディション番組「アメリカズ・ゴット・タレント」にて、アジア人初の「ゴールデンブザー」を獲得し、セミファイナル進出。
名前の由来は「色のない『白』と名前のない『A』で『白A』。個性と自我を封印し、観る人の脳内を刺激し自分たちも化学反応のごとく変化していく。 これは“白A”という手段である。と称している。
なるほど。過不足はない。必要な情報は入っている。
だが、これも同じだ。何も語っていない。
それはあくまで『情報』だからだ。
『エンターテインメント』は、情報ではない。体験だ。
体験するには、足を運ぶしかない。観るしかない。
映像を見ることでも、その断片は味わえるだろう。
だが、あの圧倒的な満足感を味わうには、やはりライブで体験するしかない。
彼らの行っていることの困難さは、けして正確に理解されているわけではない。
それは、『大人から子供まで楽しめるエンターテインメント』でありながら、圧倒的に新しいことだ。
この、ある意味では二律背反とも言える二つを、彼らは軽々とやってのける。
『え、だって新しいことって、面白いってことでしょ?』と。
『新しさ』とか、『誰もやってないこと』にこだわるあまり、表現そのものの本来の目的が本末転倒になることはよくありがちである。本来は、『面白いことを考えたら新しかった』という順番であるべきだが、これは相当に困難なことだ。そしてそれがいかにも軽やかに、自然に見えてしまうところが、もうなんだろう、本当にすごい。
今では当たり前のように観るプロジェクションマッピングも、彼らは20年以上前からライブで普通に使っていた。それが自らの新規性や斬新さを誇るものではなく、面白さや楽しさに対する貪欲な欲求から来ていることが彼らのすばらしさだ。
開演前のワークショップで撮影した観客の映像や写真を本編に取り込み、その場でしか得られない『体験』を提供。
本編ではもはやそれが出ると『よ、待ってました!』と声を掛けたくなるぐらい定着したプロジェクションマッピングのパフォーマンス。
身体を振付で『動されている』のではなく、『動かさずにはいられない』としか見えない躍動的なダンス。
彼らの出自を思わせるようなショートコント的な畳みかける笑い。(『実家のような安心感』という言葉が頭に浮かんだ)
こうして文を連ねていても、結局何も語れていないもどかしさを感じる。でも自分の実力不足を棚に上げて言わせてもらえば、きっとそれが、本当のエンターテインメントというものなのだろう。
そして本当に面白いエンターテインメントとは、アートの領域にすら接近する。
いや、軽々と飛び越える。
『面白いことを極めて行ったらアートになっちゃってました!』と言わんばかりに。
かつての歌舞伎や能が、絵画が、庶民を楽しませる娯楽であったように、娯楽が娯楽の本質を保ったまま大きく変化している。そんな凄まじいものを、いま目の当たりにしているのではないか。そんな事すら感じられたほどだ。
彼らの今の目標は、『日本のブロードウェイを創る』ことらしい。
まあ、じゃあ、つくっちゃうんだろうなあ。
と思わせるところが、すごいところである。
願わくば、それはすでに既存のコトバではない、『白A』というジャンルであってほしい。
それぐらいのことをやってのける人たちである。
同時代に生きてこれを体験しないのは、明らかに罪だ。なんらかの。
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公演告知&おまけ
http://yaginoesa.exblog.jp/28427387/
2018-07-06T11:45:00+09:00
2018-07-06T11:45:06+09:00
2018-07-06T11:45:06+09:00
daiki1978
日記
アクセプ企画公演 『どこでもないところからの眺め』
7月7日(土)①14:00~②19:30~
8日(日)③14:00~
アクセプ新町スタジオにて!
詳細はチラシ等をご覧ください。
出演はいつも出ていただいているアクセプの方々に加え、藤本一喜、沼さん、太田悠二。
さらに初顔としてフリーの前田哲志さん、さらにさらに私の古巣の演劇団『健康』から中野渡和樹くんが出演。
ありがたいことに同じく健康の水野遥さんもオペレーター補助として参加してくれます。
自分たちの活動も忙しいなかで参加してくれる御二人と、またそれを許可してくれた健康の諸君にも心から感謝。
たとえ芝居がつまんなくても、役者の名前だけは覚えて帰って頂ければ幸いです。
タイトルはご存知の方はご存知のように、トマス・ネーゲル先生からのイタダキ、さらに内容的にはそれにインスパイアされた、いがらしみきおさんの『誰でもないところからの眺め』からもいろいろイタダキ、というややこしいことになっています。
宣伝だけではアレなので、毎回パンフに載せている文章から。今回ボツ(と言えばDrマシリト)にした原稿を載せておきたいと思います。
読んだ方にも言われたのですが。どっちかっつーと観た後に似合うような文章です。こういう姑息な保険を掛ける(しかも意味があると思えない)とこが我ながら自分の嫌なところですね。本編のみならずこちらも引用しまくりですが、さんざん主張しているようにそもそも私にオリジナリティなどありませんので。
開き直るようなことでもないですが。
ボツ1
作・演出などと偉そうに名前を載せている私ですが、では演出家の仕事とは、劇作家の仕事は何でしょうか。
そして、作品をつくるとはどういうことなのでしょうか。
そんなことを考えているうちに、ある文を目にしました。
これは、私が尊敬する大好きな監督さんの作品について、ある方がつづった文です。
私なんかのダラダラした文章より、この文章を読んでいただこうと決めました。
以下、一部を抜粋、引用させていただきます。
『面白い、面白くないという判断は個人が勝手にすればいい。感動する人も、酷評する人もいるだろう。ただ言えるのは、作品を見るからには真っ直ぐに向かい合わなければならないということだ。彼は全てにおいて何かに反対することではなく、何かにならないこと、何かでないことを貫いてきた人だ。「そんな風に人は言うけれど、本当はそうではないかもしれない」ということを発し続けてきた。「あなたはそうかもしれませんが、私はそうではないのです」と優しい笑顔で言ってきた男なのだ。
反○○などというものは○○が存在しないと成り立たないものだが、○○でないということは○○が存在しなくても成立する。『反』などというものは対象があって初めて成立するもので、対象の陰画でしかない場合だって多い。反体制の革命家が独裁者に変わったり、反権力の言論人が自分に対するフェアな批判に不当な圧力をかけたり、そのような例は数限りなくある。『○○でなくある』ということは、そういった下らないループから逃れ、陳腐でわかりやすい物語から独立した存在であるということだ。そしてこの映画も、そういう存在なのだと思う。関わった多くの人たちの人生と交錯しながら、「苦節何年、ついに傑作が!」という美談でもなければ、「苦労の甲斐なく駄作ができた!」というようなゲスな悲喜劇でもなく、単純な物語に回収されない名付け得ない状況を生む作品ができたこと、そういった作品が産まれる自由が世界にはまだあること、そういう作品をつくるしかない人生を生きている男がいることを私は幸せに思う。』
作品を作ることには、いつでも迷いがあります。葛藤もあります。
しかし、少なくともこの世の中にはこの文章に出てくるような作品を作る人がいて、それを受け止めてくれる人がいる。ならば迷う前に一歩でも前に進むべきなんじゃないか。
結局、劇作家がすべき、いや、できることと言えば、物語やテーマなどというものではなく、世界がどのように見えているかを提示することぐらいなんじゃないか。
そして、まさにこの「名付け得ない状況」こそが、私がこの芝居で提出したかった風景であり、いつも提示したいと思っている世界なのかもしれない。
そんなことを考えている今日この頃です。
※ちなみに『監督さん』とは杉作J太郎さん、この文を書かれたのはロマンポルシェ。のロマン優光さんです。
私はこのロマンさんの文を初めて読んだ時、泣きました。
ボツ2
今回の作品を作る上で、きっかけとなった写真があります。
仙台在住の漫画家、いがらしみきおさんの仕事場の壁に無造作に張られたポスター。
壁のヒビをとりあえずポスターで隠しちゃった写真です。
そう、人は『とりあえず』でも何とかするものです。そして忘れたり、引きずったりもする。
ただ大事なのは、『なかったことにだけはしない』ということじゃないでしょうか。
そしてそこには、現在進行形の物語があるはずです。
人はそれぞれ、物語を抱えて生きています。
では物語とは何のためにあったのでしょうか。
『それは世界を愛せるようになるためではなかったのか。なのに、人や物がキャラ化して以来、みんな人やモノばかりを愛そうとする。『世界』というものを捉えられず、世界がどんどん狭くなっている。世界と言うのはあくまで想像力の産物です。想像力の欠けた人に世界は見えない。みんな、目の前に広がっている世界を見ずに、パソコンやスマホの画面ばかり見ているのは、その象徴というかそのまんまみたいなものですが、だからどうしろというわけではないです。人類にこうしろとかいっても聞いてくれたためしはないので。』
いがらしみきお『花火の音だけ聞きながら』より引用
思えば劇作家ができることなんて限られています。
きっと必要なのは、とってつけたようなテーマや波乱万丈のストーリーなどではなくて、『世界がどのように見えているか』を提示することなのではないでしょうか。
そしてあとはそこに生きる人々がいれば、それでいいのです。
たぶん。
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佐藤さんのこと
http://yaginoesa.exblog.jp/28427263/
2018-07-06T10:41:00+09:00
2018-07-06T10:41:50+09:00
2018-07-06T10:41:50+09:00
daiki1978
日記
公演間近になると突如ブログを更新する男、柴山です。
いや、Twitterの方にも書いたのですが、なんせ文字数制限があるもので。
無駄で膨大な言葉は私の芝居の特徴でもあると思いますが、基本、私の書き物すべてそうなんですよね。というわけで個人的な見解ですが、近年の柴山作品の中でも、非常に劇団夢遊病社テイストが感じられる作品となっています。
もしも"劇団夢遊病社ってあったなあ、好きだったなぁ"という方が今でもいらっしゃるのであれば、是非その方の目に留まり、ご来場頂けないかなぁ…。と思っています。 https://t.co/nepZsHmeXc— カサイダイシ (@kdc6966) 2018年7月4日その劇団夢遊病社と言えばこういうのとかこういうのでお馴染み(?)(写真状態が非常に悪いのは私のせいです。大変申し訳ない。)こうしたウチの初期の芝居のチラシを書いてくださったのが、佐藤さんです。
記事自体は昔のものですが、佐藤さんは今もご活躍中です。
申し訳ないことに佐藤さんがブログを書かれてるのを知ったのは最近のことでして、必要があって自分の劇団の事を検索したり(というのも変な話ですが)しているうちに、遅まきながらこちらの記事を目にしました。
実は私は佐藤さんと直接お会いしたことも面識もなく、劇団員の紹介で絵を描いていただくようになった経緯があります。絵を受け取っていた劇団員の話によると、ご自身は『なんか気持ち悪い絵ですいません』などと言ってくださっていたようなのですが、私は佐藤さんの絵のおかげでどこの誰ともわからないウチの劇団の初期イメージを作れたことを非常に感謝していました。
今でもチラシやポスターを作る相談や打ち合わせをするときに毎回考えるのですが、やはり世にいるすべての人に芝居を見てもらいたいというのは基本です。しかしそうとは言うものの、世の人すべてが自分の芝居を観て楽しんでいただけるとも思っていません。
もちろんなるべくそうであるように様々な工夫と言うか、たとえ芝居全体が楽しめなくてもどこかの部分で引っかかってもらえるような作りにすることはけして忘れませんが、それでもやはり明らかに想定する客層と違う方に『いいから観ろや』というのはちょっとやっぱり、言えませんですよ。
そもそも芝居と言うのはまず料金を頂くというのも大前提にあるとして、さらに長時間、身動きするな喋るなメシ食うな屁はしてもいいが音は出すなといった理不尽な要求をお客様に対してするのですから、せめて芝居部分は楽しめるものにしないとと言うのが私の基本的な考え方です。
『間口は広く敷居は低く、いつのまにやら高いところへ』というのが理想ではありますが、趣味嗜好と言うのはどうしたってありますし、選択の自由があるのも芝居のいいところだと思うわけです。
そういう意味で言うと、ポスターとかチラシというのはなんというか、一種のサインだと思うのですね。こういうものをやりますよ、という。
まずそこに引っかかっていただいた方はおそらく楽しめるんじゃないかな。楽しめると思う。けど覚悟はしておけ。みたいな。
関白宣言ならぬなんかの宣言ではあるわけですよ。
つまり、そういう意味で佐藤さんの描かれる絵は、私が想定するような、できたら観てもらいたいな思うようなお客様にどこか引っかかってもらえるんじゃないかという要素をもって下さってたわけです。これは非常に幸運な出会いと言わざるを得ません。
まあ、もしかしたら佐藤さんがこちらに合わせてくださってたのかもしれませんが…。
たとえ片想いでも、いや、例えそれが両想いと言われるようなモノであってもそれはお互いの片想いなのですが、どこかになにかを共有できる人がいる、と信じられることができるのは、それはそれでいいものです。
ありがたいことにある程度コンスタントに芝居をする機会を与えてもらってしばらく経ちますが、私はいまだに自分が作るような芝居が求められているのか、観たいと思うような観客がいるのかに確証は持てません。これ、自分がいない方がいいよなと思うこともしばしばです。
それでもどこかでそういう出会いがあると信じるならば、ある程度続けていないとその出会いすらないわけですから。
テレビも映画もつまらない。芝居はもっとつまらない。でも実は自分が一番つまらない事もわかってる。
汚いものを見すぎたせいですべてを他人事のように観て、斜めの冷めた視線を送るだけ。けして本音は語らない。
差し伸べられた手や笑顔は絶対に拒否する。
そんな昔の自分のような奴がどこかにいるのだとしたら。
そんなことを思いながら、今日も迷いつつ、芝居を作っています。
あ、でも、一番観に来てほしいのは若くてかわいい女の子です。
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あけたらいきなり
http://yaginoesa.exblog.jp/28013165/
2018-01-18T09:06:00+09:00
2018-01-18T09:06:22+09:00
2018-01-18T09:06:22+09:00
daiki1978
日記
いやー、TwitterやFBの最後のあたりを見たら更新が2か月ぐらい前。12月中はちょっと事情があって覗いてなくて、今年に入ってからはなぜかネットの通信不備で画像とかが全然見れなくなった(か、もんの凄く思い)ため、SNS一切チエックしてませんでした。じゃあスマホで見ればいいじゃないか、とお思いでしょうが私のスマホだと機種が古いからTwitterもFBも30秒ぐらいか、スクロールしたら速攻落ちるという。
結果、二か月放置。
まあ、実のところ個人的には『別にいいか』ぐらいのことだったんですが。ああいうのって、やってると毎日チェックしちゃいますが、無けりゃ無いで全然困らないんですよね。(ただいろいろイベントやら公演やらあったのを把握できてないのはアレで、メール以外のSNS上で告知やらご連絡くださった方がいたらお詫びします。)
とは言えですね、気づけばいつの間にやら公演の時期になっていて、そうなるとそんな呑気な事も言ってられないわけでして。というか、もう明後日から本番じゃないか!
てなわけで、出演者や関係者、スタッフの方々がいろいろ告知してくださっているらしい(観れてない)ので大変ありがたいんですが、私もせめてやれることを今更ながらやってみようと思った次第です。
結果この記事を朝の7時から書き始めて今もう9時前なわけですが。遅せぇ!
画像アップロードに30分ぐらいかかるとはどういうわけだ。
ともあれ今年一発目の公演、去年も色々とお世話になったアクセプさんの公演です。主演・小笠原真理子、そのほかあの人やこの人、お世話になっているお馴染みのメンバー。そしてプチサプライズとして、太田悠二が久々の復活出演です。
そんな太田君も含め、仕事のできる俳優がそろっております。私が入ってしまってるのがアレですが、そこはまあ、あの目をつぶっていただいて。今回は原作付きですので、ホンも保証済み。安心して褒めますが、いい内容です。過不足なくまとまった、『気の利いた小品』みたいな作品をやってみたいという願望がありまして、内容的にはまさしくそんな感じ。アテ書きでない、なんか久々に役を演じる『演劇』な感じ。(じゃあこれまでやってたのはなんなんだ、というツッコミが入りそうですが、いや、あくまでイメージ的な話です)
有難いことに今現在、雪も一休みしてる感じです。いい流れが来ているに違いない!と勝手に思い込んでいる今日この頃。寒い時期ではありますが、ぜひご来場いただければとおもいます。、
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最凶ですかー!(はやらないしはやらせない)
http://yaginoesa.exblog.jp/27131154/
2017-09-22T17:24:00+09:00
2017-09-22T17:24:32+09:00
2017-09-22T17:24:32+09:00
daiki1978
日記
まあ、個人的にはどうでもいいっちゃどうでもいいと思ってるんですけどね。
ただ、内部的というか作る側としてはいろいろとお客さんの感じる面白さとは関係ない(まあ、もし気づいてくださる方がいたらそれはそれでありがたいし、面白がってもらえるかもしれないけれど)、そういう裏テーマみたいなものを設定して臨むわけです。
今回の芝居もそーゆーのが無数にあって(その一つは「女大会」)、ここまでの仕上がりを見ている限り、少なくとも自分が設定したというか課した課題というか目標はあらかた達成できているように思えた。もちろん一部の人には申し訳ない気持ちというか、クリアできなかったなという思いもあるのだけれど。
もちろんまだ本番を迎えていない以上、そうと決めつけることはできないし、望みも捨ててはいないですが。
そしてこういうことをある意味呑気に考えられるということは、表部分が着実に仕上がってきているという証でもあって、いい形になってきている気がしている。
演出家が役者を不安にさせたら論外だけども、何というか変な意味で安心していない部分が妙に頼もしく感じる今日この頃。
さあ、明日は開演。
物語とかテーマとかどうでもいいので、そんな役者たちを見てくださいと切に願う。
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ぐだめき
http://yaginoesa.exblog.jp/27131121/
2017-09-21T23:40:00+09:00
2017-09-22T17:07:47+09:00
2017-09-22T17:07:47+09:00
daiki1978
日記
もちろん面白いという事にはいろいろなものも含まれるわけであって、ストーリーが面白いとか役者が面白いとか人間性が面白いという事とかもそこには入ってくるわけで、まあその中の一つでも何かが自分の中で成立していれば、観るにしてもやるにしてもいいのかなという気はしている。
ただやる側として考えた場合、さらにいろいろメンドクサイことを考えてしまうのが自分のような人間であって、そーゆーところは世でいわゆるメンドクサイと言われる同業者の方たちよりよっぽど厄介でメンドクサイ部分だと思っているのだがそれは単に表出する機会が少ないというだけの話だと自分では思っている。
譲れないラインというものはあって、ただそこを楽しめない面白いと思わない人に向かって何かをやっていくことが果たしていいことなのかどうかという迷いをずっと抱えている以上、それはやはり出ていく場なりを考えていかないと、結果的に迷惑なんじゃないかと考えてしまうのである。
もちろんアウェーに出ていくのは燃えるよねーみたいな部分は物凄くあるので、そこはそういう決着のつけ方をできないことはないのだが…。
今回の作品に関して言えば、そうした自分が思う演劇感というか、まあ、これがダメなら…という部分は表現できているように思うので、作る前から思っていたことではあるのだが、そういう意味で結果でいろいろジャッジしなくてはいけないなという事だけは考えている。
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いろんな「プロレス」(あ、宣伝です)
http://yaginoesa.exblog.jp/27128998/
2017-09-21T16:44:00+09:00
2017-09-21T16:44:41+09:00
2017-09-21T16:44:41+09:00
daiki1978
日記
この種の、なんというか「質の悪い八百長(という言葉が厳しければエンタメ)」を表現する言葉として「プロレス」が使われているのを見ると、なんかモヤモヤするものを感じるのである。当然だがエンタメにも八百長にも1流から3流まであるし、菊池成孔の言葉を借りれば「演舞性の中にも競技性はあるし、競技性の中にも演舞性はある」以上、そのように簡単に割り切っていいものとも思えないのである。
では、いい「プロレス」とは何なのか。時折、レスラー以外の人に「プロレスラー」を感じることがある。
たとえば、高橋名人だ。
そう、あの16連射で「ゲームは一日一時間」の高橋名人である。いまの若い世代にはまったく意味が分からないかも知れないが、あのおじさんは私たちの世代にとっては、コロコロコミックを通じてある意味伝説上の人物に近いぐらい、それこそ清原や猪木と同じぐらいの尊敬を集めていたのである。だってアニメや漫画にだってなってたんだから。(同様の存在にタミヤの前ちゃん、コミックボンボンならストリームベースなどがいた)
高橋名人に続けとばかり各社からいろんな「名人」が出てきたが、なかでも有名だったのは毛利名人である。
当時の熱狂ぶりはすさまじく、この二人の名人がスターソルジャーというゲームソフトで対決する模様が、映画になったぐらいである。
その映画では両名人の対決をクライマックスに、それぞれがファミコン特訓(高橋名人はナチュラル系、毛利名人は優雅系とキャラ付けも出来ている)を繰り広げたりする。いや、本当にいまこうして書いていても「なんだそれは」と言いたくなるような話だが、正真正銘、歴史上の事実だ。
「超ファミコン」という本でこの映画の構成を担当した渡辺浩弐氏による当時の裏話が語られているのだが、これがなんとも幻想の膨らむいい話だった。
まず、当然映画であるからして、制作側としては三本勝負をうまいことアレして…みたいな話を両者に持ち込む。ところが、若く血気盛んな毛利名人はこれを拒否する。「高橋名人にも失礼だから、真剣勝負じゃないとやらない」と。困った制作側は、高橋名人にこうした話を含めた事情を相談すると、高橋名人は「それならそれでいい。ただ、自分は魅せるプレイをしたうえで勝つ」と断言するのである。高橋名人かっけえ!
そもそもこういう企画自体がゲームの販促も兼ねているわけだから、ほんとはいろんな敵やらを出現させたりしてゲームの楽しさを伝える必要があるわけである。ところが、勝つこと(点数を稼ぐ)に集中してしまうと、例えば画面に出てきた敵はすぐ倒す、といったプレイスタイルになるため、観て面白いものにはなりづらい。しかしその両立を高橋名人は目指すというわけである。
どうだろう。まるで猪木×アリ戦の成立過程を見るようなこの流れ。
そして対決当日までの間でも、ただひたすらゲームの特訓に時間を費やし、撮影的には割と楽な(トランプ立てる練習シーンとか)パートを担当、時には「ゲームの練習しなくちゃいけないので撮影に付き合えない」という毛利名人に対し、高橋名人は撮影にも積極的に協力し、特訓シーンなどの大変な撮影もこなすのである。
そしていよいよ対決当日。
大勢の子供がエキストラとして集まったイベント会場で、両者の対決が始まる。ただ勝つことにこだわる毛利名人と、あくまで「魅せる」プレイをしようとする高橋名人(ちなみにこの日、高橋名人は高熱を出してコンデイション最悪)。結果、空気を読まない毛利名人が、あっさり3連勝!大喜びする毛利名人。しかし、当然、会場はドン引き。子供たちも言葉を失っている。
実はここにはちょっとした裏話があって、制作側ではいきなり名人の自機がやられてゲームオーバーという展開だけはどうしても避けたかったため、構成の渡辺氏の独断で、当日のソフトをこっそり無敵のROM(敵に当たったり、弾が当たっても死なない)に差し替えておいたそうである。これは当然両名人も、スタッフでも限られた人しか知らないことだったそうだ。
さて、話は戻って対決終了後。困ったのは制作側だ。とりあえず、ポカンとしている子供たちを退場させ、映画用にもう一戦撮り直すことになる。毛利名人も渋々了解する。そしてここで高橋名人は「じゃあ、勝ちますよ」と言って、なんと本当にあっさり勝ってしまうのである。すげえ!
しかし、高橋名人的には納得がいかない様子。それは「いい画」のプレイではなかったからである。最後まで、高橋名人はそこにこだわっていたのだ。
以上がこの映画の流れだ。とにかく勝ちにこだわり妥協しない毛利名人も素晴らしいし、それを受け止める高橋名人も素晴らしい。
これが私の思う、素晴らしい「プロレス」である。
ちなみに最近、高橋名人は「しくじり先生」に出ていろいろアレしてたようだが、アレは名人のサービス精神がいろいろ爆発した結果である気がする。ていうか、ゲーム下手だったとか開始2分だけ猛練習するとか、それなのにあれだけやれてた方が逆にすごい気がする。結果的に幻想は高まったので問題なし!
はい、というわけでそんないろんな「プロレス」が詰まった作品がこちら!はい、宣伝です!稽古は今日が最後!明日はリハで、明後日は本番です!
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(サンドの伊達ちゃん風に言うと) へたくそか!(宣伝が)
http://yaginoesa.exblog.jp/27126739/
2017-09-20T13:28:00+09:00
2017-09-20T15:36:49+09:00
2017-09-20T13:28:59+09:00
daiki1978
日記
そしてこういうことをやっていると改めて感じるのが、昔のテレビ局のプロレス担当者の選曲センスの凄さ。特に全日系はすごい。
補足しますと、昔は入場テーマとか全日なら日テレ、新日ならテレ朝の担当の方が決めてたわけですね。まあ、まれに本人持ち込み(三沢の「スパルタンX」とかそうだったはず)もあったようですが。よくプロレス関係のビデオを見て一番がっかりしたのが入場テーマ曲の差し替えで、そのせいもあって、今はオリジナルが増えたのでしょうがこれも善しあしですね。どうしても傾向が似てしまいます。また同じ曲でも本物を使うかカバーを使うかみたいなこともありますが、カバーでも、移民の歌のドラムソロバージョンなどという異常にマニアックなものをもってくるあたりが日テレはすごいです。また、二曲合体三曲合体で作ってしまう情熱。スタン・ハンセン『サンライズ』が三曲合体だったと初めて知った時の衝撃。一番の傑作はザ・グレート・カブキの『ヤンキー・ステイション』で決まりですが。
そんなわけで、プロレスの華と言えばやはり入場シーンでしょう。同時に、プロレスの奥深さというか得体のしれなさを感じさせる部分でもあります。
ある意味一番象徴的なのがコレですね。
これ、本当に初めて見る人は全く意味がわからないと思います。
え、なんで田村の入場でこんなに盛り上がってるの?(しかも糸井重里まで?)とか。
実はこの入場には、様様な情報と歴史が埋め込まれているわけです。例えば、
・このテーマ曲は、田村の曲ではなく、UWFという団体のテーマ曲である。
・田村はUWFという団体の若手だった。
・UWFという団体は総合格闘技よりの団体、で、ある意味歴史的な団体だった。
・グレイシー一族はこのころ、プロレスラーハンター、つまりわかりやすい『プロレスの敵』として名を成していた。
・『プロレスラーはガチでも強い』という幻想が崩れ始めていた時期だった。
などなど、いや実は書ききれないんですが、そういうその他もろもろな要素がたくさん詰まったうえでの、この爆発なんですね。
『田村潔司選手の入場です!』のあと、一瞬の間があって、客が「ん?」ってなるあたり、いやほんと憎らしいというか、素晴らしい間と演出です。
そして試合も含めると、プロレス特有の『謎かけ』というのがあります。いわば、試合結果や内容(それ以外もですが)に『え、あれはどういうこと?』という部分を潜ませておくのですね。例えば『あの選手があの選手にあっさり負けた。たぶんあの負けたほうの選手のほうが強いはずなのに。でもあ負けた方は、試合後ににやりと笑った。あれはどういうことだ?』みたいな。こういうところからいろいろ想像したり妄想したりするのが、いわゆる変態的プロレスファンです。
ただそうなると当然『じゃーそんなもん、そういうの知ってる人しか楽しめないじゃないか』となるかもしれませんし、それによって生観戦に行くと『会場で誰も聞いてないのにしたり顔で解説する半可通』みたいなイヤーな人種と遭遇する(必ず一人二人はいるんだこういう奴が)羽目になったりするのですが、しかし、です。
その一方で、ほかのスポーツにはない大きなプロレスの特徴が『初めて見る人でも、老人でも子供でもわかりやすい』という点なのですね。ルールを知らなくてもいい、一見のお客さんでも、『おー、馬場でけー』『わー、いたそー』『ブッチャー怖すぎだろ』みたいにきちんと楽しめるという。
つまり、プロレスというのは、『間口も広く一見でも楽しめて、それでいて奥を掘ろうとか知ろうと思うといくらでも堀りどころがあり、そういうことを知るとより楽しめたりする。』という、なんだそれ無敵じゃないかずるい。みたいなものだったりするのですよね、本来は。
まあ実際そうなっているかどうかはアレですし、他のジャンルでももちろんそういったことは言えると思うのですが。
で、やはり演劇というものもそうなるのが理想だよな、と思うのですが、実際そういうものは少なかったりします。
私自身は『お客さんの半分ぐらいが絶賛で半分ぐらいは怒ってる』ぐらいの反応が理想なんじゃないかと思ったりもするのですが、しかしやはり目指すところ、志としてはプロレスのような奥深さと入りやすさを目指していきたいと思いながら今日も稽古に励みたいと思います。
相変わらず前振りが長すぎますが、奥さん、なんとこれも公演の宣伝だったんですよ。驚いたでしょう。
というわけで『最凶』よろしくお願いします!
おまけ
余談ですが私が最も好きなプロレスの入場シーンはこちらです。全日本プロレス旗揚げ20周年記念試合。当時中学生だった私は、夕方からの特番を見るために、部活をサボり、帰りのバス(私、バス通学だったもので)を途中で降りて走って帰りました。しかしあろうことかウチの祖母がカギをかけたまま出かけてしまったため、家に入れない。ドアの郵便受けを開けると、かろうじてテレビが見える。(昔のビデオは、録画の時にテレビが自動でついていたのです)ビデオに撮ってるなら別に今見なくてもいいじゃないかと思うかもしれませんが、その時はあまりにも見たすぎて、そのまま郵便受けから鑑賞したという思い出の試合です。ハタからみればただの不審者ですが、そんなことは関係ありませんでした。ようやく安住の地を見つけたアンドレが、辛そうながらもリングに上がる姿で涙腺が緩み、お祭りなのに自分を貫きやる気モードなハンセンを見てやばいやばいと思い、馬場さんの入場で完全に涙腺が崩壊しました。つまり、客観的に言うと『マンションの廊下でリーゼントの中学生が郵便受けを除きながら号泣している』という、いったいどこに通報していいのかもわからなくなるような状況だったわけなんですが、そういう思い出のある試合です。ちなみに翌日、先輩からここに書けないぐらいのシバかれ方をしました。それは懐かしくないです。
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だいほんができるまで
http://yaginoesa.exblog.jp/27117806/
2017-09-16T01:29:00+09:00
2017-09-16T01:43:02+09:00
2017-09-16T01:29:19+09:00
daiki1978
日記
9月某日台本が30Pぐらいあがる。
結局、台本というのは何を書くかじゃななくて、何を書かないかの取捨選択なんだなと身に染みて思う。
題材が少々特殊な世界(プロレス)なだけに、世界観を知らせるための部分や人間な関係的な部分、そういったものも含めて本当に悩ましい。
実はプロレスを題材にした芝居をやろうとするのはこれで二度目。以前、某大学の運動部の人たちとやろうとして残念ながら頓挫した企画は『プロレス芝居』だった。
ただ、今回は違う。あくまで、『プロレスという仕事を職業にした人たちの話』にすること。ここを間違ってはいけないと自戒。
9月某日
テーマの周辺をグルグル回るような会話を書いていると、あー、こんな会話ならいつまででも書き続けられるな、と思ってしまう。
もちろんそんなことをしていてはいけない。毎日少しづつ台本追加。
9月某日
私は空想力とかそういう部分の能力で大いに劣るので、こういうキャラになってほしい、とかこういう人であってほしい、とかでは役が書けない。
なんせ出発点がそうだったんで、役者ありきじゃないと台本が書けないのである。
なので必然的に、こういう人なんじゃないだろうかとか、こういう部分があるんじゃないだろうかという書き方になる。
一見はっちゃけたキャラでも、それはその人の中の一部分を拡大しているだけだと思っている。あくまで私の見え方で。
ま、それもこれも結局思い込みなんだけれども。
9月某日
前々から思ってるのだけど、私の書くセリフには癖がある気がする。話し言葉に書き言葉が急に混ざる。ただ、私は人間てそういうことが往々にしてあると思っている。
まあ、突き詰めれば私自身の話し方の癖なのだろうけど。そういえば覚えにくいってよく言われたな。
あと、考え方の癖として、『こういう台詞を言うという事は、これはこういう状況でこういう言い方でこういう感情だろう』という考え方をするので、それを掴めないと大変なのかもしれない。でもそういうところでズレが出るからこそ芝居というのは面白いのだけど。
9月某日
清水邦夫と蜷川幸雄の対談を読んでいて、清水邦夫が稽古場に行って一番びっくりするのは「音」だという。
要するに、劇作家というのは当然台詞を書くときは自分でも口に出して喋ってるわけで、それと全然違う『音』が聞こえてくるのに、時々耐えれなくなるそうだ。
確かに私もいつも、『へー、その音で言うんだ!』と驚くのだが、それを面白がってしまうほうなので全く気にならない。
こういうのって、バンドの面白さに似ていると思うのだけど、これはソロ向きかバンド向きかって話なのかもしれないなどと思ったりした。
9月某日
本番まであと13日ぐらい、というタイミングでやっと台本脱稿。
で、できてみたら120p。
なげえ!
とは言え、今回みたいな一定の『場』を作るにはある程度の長さは絶対いる。あとはその見極めだけど。
9月某日
通したら2時間を超える。
やっぱりなげえ!
まあまだテンポもリズムもアレだし、そもそも私のホンはいつも私が相当早口を想定して台本を書いているので、テンポが詰まるまでそうなりがちなんだけど、にしても長い。稽古日程とも考えあわせると考えどころ。
それでも自分の世界や考えを押し通す作家さんや演出家もいるし、劇作家が散々ぱら苦労して芝居書いてるんだからなんとか覚えろや、っていう人がいるのもわからないではない。ただそういう話聞くたびに思うのは、でも演出や劇作家は基本、舞台には立たない(客の目にさらされない)わけだしなー、と。
もちろん公演の全責任は演出家がとるというのは大前提なんだけど、それでもやっぱし、なんだかんだ言って観客の前に出てリアクション受けるのは役者なのである。
だからそこは無理強いできないしすべきではないと、少なくとも私は思う。や、えーかっこしーに見えるかもしれないが、私はそこで押し通す強引さとか精神力がないだけで、そこが自分の弱いとこだとも思うので、けして良くはないのだ。それが必要な局面というのは、確実にあるから。
台詞を入れ始めている役者には申し訳ないのだが、台本カットを考える。なんせその決断が遅れれば遅れるほど役者により迷惑をかける。
カット部分の候補を考え始める。
9月某日
何かを削るという事は、何かの要素を捨てるという事だ。1つの要素を削るという事は、それに付随したものの要素も削らなければバランスが取れなくなる。
ものずごく雑な例で言えば、剃り込みを片方づつ深くしていくようなもので、一歩間違うとエライことになる。
じゃーどうでもいいギャグとか削ればいいじゃないかとなるのが自然なんだが、私の数少ない信念として、『人生において下らないことと深刻なことは同時進行する』というのがあるので、そこのバランスは失いたくない。まあそんな信念のせいで枝葉に気を取られてテーマが伝わらないとか言われがちなんだけど…。
昨日考えた部分を元に、稽古場で仕上げを考え、置き換えられる部分は置き換える。
役者にカット部分を告げ、通し。
短くなる。バランスに問題はなさそうだ。これならあとはテンポの調整で何とかなりそう。
さあ、あと1週間。恥ずかしくないものにしなくては。
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もうひとつの土曜日
http://yaginoesa.exblog.jp/27091801/
2017-09-04T17:09:00+09:00
2017-09-04T17:09:32+09:00
2017-09-04T17:09:32+09:00
daiki1978
日記
AM3:00
しょぼしょぼと目を覚まし、しこしこと台本を書く。昔から芝居の台本は一度手書きで下書きしないと台本が書けず、効率が悪いことこの上ない。
が、ただでさえ手直しが多い私の場合、パソコンで打ち込む際に見直しができるこの方式が性に合っていたりもする。
大きな問題は昔から手書きの下書きを解読するのが非常に困難であるという事。
しかし考えたら近年は短中編クラスの台本ばっかり書いていて、長編書くのが久しぶりだったと書き始めてから気づいた。
シーンのバランスとか人物の登場タイミングとかすごくムズかしい。ていうかいまさらそんなことで悩んでいるのか。
AM8:00
シャワーを浴びて準備をして、アパートの前で待つ。時間を少し過ぎて萱森のバンがやってきて、目の前を通り過ぎる。
そして戻ってくる。なぜ過ぎる。
盛さんと三人で、一路仙台へ日帰り強行の旅。
途中SAに寄ってもらい、実家へ土産を買い、再び進む。
道中、予定通り月曜の稽古用の台本をまとめようとノートPCを開くと、電源がつかない。
充電が切れていた。
会話しようにも何やら萱森車の音がうるさくて相当声を張り上げないと会話がままならない。
あきらめて、資料を読んだりしながら手書きで全体の進行の練り直し、見直し。
まあ結果的にはこれでだいぶまとまったんで良かった。
ちなみに前の二人は何やら会話していたが内容の9割以上は聞きとれなかった。
PM13:00
仙台着。萱森コンダクターの予定では牛タン→お茶→観劇→千葉の店。
牛タンの店選びは私頼りだったことをここで知る。
つっても私は面倒なので、いつも牛タンは駅ビルでしか食わない。
ていうかどこで食ってもそこそこうまいんだから大して変わらない。
というわけでエスパル地下の喜助。牛タン通りは長蛇の列だったのにこちらは余裕。
萱森の牛タンにかける愛が強すぎてちょっと引く。
そんなに好きなのに、なぜか家族におみやげという発想がまったくないのもちょっとどうかと思う。
PM14:30
卸町の10BOX到着。まだ時間があるのでちょっとお茶でも、となったがその店にたどり着くまで15分ぐらいかかる。
しかもなぜか萱森が時間感覚がマヒしており、そこから普通に店に入ろうとしてビビる。
いや、ここまで来るのに15分なんだから、戻るのにも15分かかるだろ。
というわけで、行って戻って30分。
開演時間になったので会場へ。
PM15:00
10BOXでとうほく演劇祭の某ブロックを感激。一つのブロックが3団体。各45分ほど。パンフを見たら、他のブロックにはマップレスもいた。
まあここで書かなくても何処が出てたのかはすぐわかってしまうのだが、あえて団体名等は秘す。
1番目の上演。最低。
面白いと面白くないとかじゃなくてただただ酷い。発想が安易、演技プランが安易、すべてが安易。
「これはひどい」という言葉はこういう時使う。
1例を挙げると、オタクのキャラが出てくるのだが、これが「眼鏡で」「人形を出して」「アニメの話をしだして」「ネット用語を使う」。
あのー、オタクを出すなら、いかにしてそういう誰でも思いつくステロタイプのキャラを避けて頭をひねるのが工夫のしどころなんじゃないですかね。
それがまだ私らみたいな40代とか50台の人間がやるならまだしも、そういう人たちと同世代の、学生演劇(実際に学生劇団かどうかということではなく、年代的に)をうたう人たちがそれをやっちゃうのはホントいかがなものでしょう。とにかくこの芝居、この種のひどさが全編にちりばめられている。いやホントどうかと思う。
2番目の上演。青森大学演劇団健康。
それはもうすがすがしいほどに、演技がド下手。
しかし、それが救いである。なぜなら、演技は練習すりゃうまくなるからだ。
1番目の上演の問題はそこにもある。演技というものを勘違いして、しかもそこそこ出来上がってしまっているため、手の施しようというか、戻るべきリカバリーポイントさえないのだ。それに比べると健康は、演技の下手さがすべてをぶち壊してしまってはいるが、逆に言えば演技さえよくなればかなり違ったものになるように見えた。
しかも、キャラクターはなかなか面白い役者が何人かいるし、下手とはいえ、抑えるべきポイントや間の選択自体は間違っていない。表現できていないだけだ。
またまた例に出して申し訳ないが、1番目の更なる問題は、おそらくある程度想定通りに表現できているにもかかわらず、その完成形がとんでもなくひどい、という点にある。
おそらく観客の目には健康が一番出来の悪い芝居に見えたかもしれないが、ひいき目ぬきにしてそんなことはない。
3番目の上演。普通に面白い。というか相当面白い。
女子高演劇部あがりの劇団、という一歩間違うと恐ろしいものになる案件だが、それが全部いい方に転がるとここまでは行ける、といういい見本。
少なくとも演技、脚本、照明音響から演技スタイルの選択に至るまで工夫しまくっているし、最高かどうかはともかく最良の結果を出している。
またまたまた例に出して悪いのだが、1番目の芝居の安易さというのは、例えば台本や演技を作っていく際、1~2番目に思い浮かぶものをすぐ採用してしまっている浅はかさにある。少なくともこういう場合、例えば最低10個ぐらいは元から徐々に離れた候補があって、イメージ的に一番遠いものか、もしくは逆に一周回って近いものか?みたいな試行錯誤があって、一つ一つが決定されていくものでしょう。ていうか、そうするべきでしょう。
3つ観て気づいたのだが、実はこの3本、意図的か偶然かいやたぶん偶然だろうけどテーマ的に近しいものを扱っている。
3本とも脚本が女性で、年代的にもそう遠くもないことを考えれば、その辺が似通ってくるのも不思議ではないのかもしれない。
(ちなみに私の知り合いの、世界を放浪している某旅人というかおっさんも同じようなことを悩んでいるそうなので、まあそのへん普遍的な悩みなのかもしれない。)
だから、健康の面々が同じブロックの2本を見ていてくれるといいんだけどな、と思った。
同じというか近しいテーマで1つは最低の悪い見本、もう1つはこのテーマでここまでやれるんだ、といういい見本を見せてくれていると思うので。
ともあれ帰りの道すがら盛さんと、ああいう(1本目)のを見ると芝居をするのがこわくなるねえ…みたいな話をしたものであった。
そう、自分らだっていつああなっているかわかったもんではないのである。何より恐ろしいのは自分ではなかなかそうとは気づかないことだ。ああ恐ろしい。
PM17:30
元健康代表の村下君も観劇に来てたので、この後の飲みに誘う。あとで合流を約束する。
私の実家に開店祝いを取りに寄るため移動。
PM18:00
上杉通付近。萱森が千葉の店に予約を入れたのは18:00.しかし18:00の時点で私の実家にすらついていない。
しかもいまなぜか仙台在住の佐藤和明さんも同様に待ち合わせしたらしく、萱森が電話を入れてみると、もう店の中にいた。そりゃそうだ。
萱森が「もうちょっとで行くから」と謎の嘘を連発するが、そのたびに横で盛さんが「全然もうちょっとじゃないのに」と細かく突っ込むのが面白かった。
まあ、「もうちょっと」の「ちょっと」は人によって違うけど、それにしてもどう考えてもあの場面は「もうちょっと」ではない。
なんせこの時点で千葉の店の場所すらわかっていない。
PM18:30
北仙台。私の実家で、親の友達の看板屋さんに制作をお願いして届けてもらった開店祝いを受け取り、土産を渡し、建て替えておいてもらった料金を払って、地図を糧手に車に戻る。スマホのナビと地図で千葉の店へ急ぐ。
PM19:00
荒町。何度か曲がるべき道を通り過ぎて大回りしたり、店の前を気づかずに2,3度通り過ぎたりしながらやっと到着。
ていうか仙台、一方通行が多いんだよ!
大学時代の健康の同級生千葉が、奥さんとやっている炭火焼肉屋。今年開店したばかりである。
入り口を見たら貸し切りとなっていて、貸し切りなのに佐藤さんが一人で飲んでいると思ったら笑えたが、笑ってる場合ではないので急いで入店。
貸し切りのはずなのに別のお客さんがいたので不思議に思ったが、よく見たら佐々木のふみくん(健康の後輩、萱森の一代下)だった。
意外すぎて一回普通に通り過ぎてしまったぐらい意外だった。
しかも橋幸夫さんまでいたのでさらにびっくり。(佐々木は橋さんのマネージャーをやっている)
と、いうことは今まで店内は、佐藤さん+橋さん一行という不思議な組み合わせだったことになる。考えるとちょっと面白い。
まあ、佐藤さんはぶつぶつ言っていたが。
というわけで食ったり飲んだり。橋さんが帰られて、佐々木がホテルからわざわざ戻ってきて参加してくれたり、村下君も合流したりしてさらに食ったり飲んだり。
何か特に言う必要もない余計なこともいっぱい言ったりした気もするが、まあいいや、40だし。
ああ、普通にうまいし、よくできた奥さんが頑張ってらっしゃるので皆さんよろしかったら是非「千葉ず七輪」へどうぞ。
マスターに元カノの名前を言うと何かが割引になるかもしれません。殴られるかもしれませんが。
AM1:00
仙台発。高速乗って、一路青森。一応パソコンは多少実家で充電したが、たぶんパソコンも私も無理。
AM2:00
なぜかサービスエリアで急激にそばが食いたくなってそばを食う。
AM4:00
何度か休憩挟みながら進む。寝れるなら寝たいが、酒を飲むと寝れないのは昔から。
AM6:00
休憩で仮眠している萱森を邪魔しないよう外で一服。やることがないのでなんとか岩とかの説明文を5回ぐらい読む。
AM7:00
青森着。スマホの電池が切れていた。アパートに帰り、泥のように寝る。どう考えても今日はなにも出来そうにない。
と、いうわけで、日曜日に電話や連絡等いただいた皆様、申し訳ありませんでした。
こんなことになってました。
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最凶!
http://yaginoesa.exblog.jp/27077543/
2017-08-28T19:43:00+09:00
2017-08-28T19:43:30+09:00
2017-08-28T19:43:30+09:00
daiki1978
日記
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公演終了
http://yaginoesa.exblog.jp/27075670/
2017-08-27T20:37:00+09:00
2017-08-27T20:37:55+09:00
2017-08-27T20:37:55+09:00
daiki1978
日記
暑い中ご来場いただいたお客様に心から御礼申し上げます。
ありがとうございました。
一部公演のお客様にはアクシデントにより大変ご迷惑をおかけしました。
謝罪して済むことではありませんが、本当に申し訳ありませんでした。
関わってくれたスタッフキャストの皆さんにも最大限の感謝を。これからもよろしくお願いします。
脚本の野宮千尋へは、結局いろいろいじくりまわすことになってしまってすんませんでした。
まあ、小汚い犬にかまれた災難とでも思ってください。
最近の青森界隈ではちょっと見ない類の芝居で戸惑われた方もいらっしゃったかもしれません。
今回のお話をいただいた後も実はかなり迷いました。(まあそう言いながら勢いでその場で引き受けはしちゃったんですが。)
話を受けて改めて様々な芝居を見、状況を眺めるにつけ、自分が恥ずかしくない、面白いと感じられるものが今の演劇界隈で必要とされているのかどうか。
実は未だ迷っていますし、そうでないならさっさと身を引く覚悟もあります。
とは言え、やはりこの辺が自分の居場所なので、とりあえずはこれからもコソコソそやっていきたいと思います。
演技のクオリティ、演出の精度など反省を上げればキリがありません。
満足する日などないのかもしれませんが、他人はもちろんですが誰より自分に愛想をつかされないよう精進していきたいと思います。
…とか言いながらもうちょっとで次の芝居の稽古が始まるという。
なので、とりあえず色々置いておいて、まあ、まず、やってみるとしましょう。
素晴らしいチラシがすでに出来上がっております。
自分の芝居のチラシを見てこれほど「この芝居観てえ!」と思ったことはありません。
「で、この芝居、俺が書くんだよな・・」と、若干途方に暮れている今日この頃です!
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御礼とお詫び
http://yaginoesa.exblog.jp/27074392/
2017-08-27T08:41:00+09:00
2017-08-27T08:41:31+09:00
2017-08-27T08:41:31+09:00
daiki1978
日記
また19:00の公演にご来場いただいたお客様には、照明トラブルの関係から本来の内容を提供することができませんでした。
お客様の貴重な時間を使わせてしまったあげく、大変ご迷惑をおかけしたことを心からお詫びします。
本当に申し訳ありませんでした。
二度とこのようなことがないよう心がけると共に、万が一の場合の対処も考慮した準備を期して臨みたいと思います。
現在機材トラブルは復旧しております。
本日27日公演最終日、11時開演です。
新町はパレードの関係で一部交通規制がかかかっておりますが、会場への移動等でご不明な点等あればお問い合わせください。
本日のご来場を心よりお待ち申し上げております。
演出
柴山大樹
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さらに宣伝から遠ざかっている気がしつつも一応宣伝。
http://yaginoesa.exblog.jp/27072251/
2017-08-26T04:26:00+09:00
2017-08-26T04:26:11+09:00
2017-08-26T04:26:11+09:00
daiki1978
日記
今回の芝居の原作は夢Qさんです。
こう書くと字面的にクエスチョンクエスチョン的な大ぐらいお化けの曲が浮かんでしまってやや困りますが、それは置いといて。
画像は大学時代、東京に芝居を見に行くぞツアー(今勝手につけた名称ですが)の際、神保町の古本屋で思わずジャケ買いした全集。ちなみにそのせいで、翌日に観劇予定の芝居を見る金がなくなるという間抜けなことになりましたとさ。
あの時は一ミリも迷いませんでしたが、確かローリー寺西のロッキーホラーショーだったはずで、今考えれば観ときゃよかったなとも思いますが。
当日パンフの方にも似たようなことを書いたのですが、私が夢Qさんを一番熱心に読んだのは中学生ぐらいの時だった気がします。
ある時期、「ドグラ・マグラ」がなんていうかサブカル文学系のアイコンというか必須アイテムみたいだった時期があって、ただ私の場合はミステリーやホラーからの流れで入ってます。
「何を読んで、聴いて、観てきたか」は、かなりの確率でその人をあらわすものだと私は思っておるのですが、そういうアレで行くと私の場合、「乱歩正史で産湯をつかい、夢Qドイルにラブクラフト、安吾とツツイに衝撃受けて、締めはやっぱり風太郎」みたいな感じ。
まあ細かく言えば芥川とか田中芳樹とか色々あるのですが、おそらく私の7割ぐらいはこういった成分で出来ているように思います。
ミステリー方面からのアレはチラシとかでも書いたので、ここではホラー方面からのアレでちょっと夢Q作品のことを書いてみたいと思います。
私は過去に「ドグラ・マグラ」とか「瓶付地獄」あたりをモチーフにした芝居(たぶんそう思われてないと思いますが)もやったりしてて、たぶん一番最初に読んだのは「人間腸詰」だった(だってこんなタイトルの本見つけたらそりゃ読む)と思いますが、実は夢Q作品の中で一番好きで、同時に一番怖いと思ってるのは「いなか、の、じけん」です。
「いやいやあれはジャンル的にはユーモア小話的なアレでしょ」というツッコミは百も承知ですが、いやそれがなぜかわかりませんが、私はあれが初めて読んだ時からとても怖かったのです。なんでしょう、そこはかとない恐怖というか、いやな雰囲気というか。
自己分析すると、もともと横溝の影響だと思うのですが(あと角川映画)、ああいう土着的なアレに対する恐怖というのが私にはあるのかもしれません。
私の母の実家は、母屋とか出産部屋みたいなのがあるいわゆる田舎の大家で、親が離婚する幼稚園ぐらいまでは時々私もお邪魔していたのですが、子供ながらに広い家とそこに住まう人たちの人間関係、みたいなとこに恐怖を感じていたようです。
また祖父方の親戚のとある一家がまた絵にかいたような、「何神家の一族だよ!」みたいなところで、そういうドロドログチャチャみたいな部分に触れたことがトラウマとなっているのでしょう。たぶん。
人にとって何が地獄か、というのは色々あると思いますが、こういう環境というのもある意味「地獄」です。
なんせ先ほどの何神家かの実際の例でいうと、まあ差しさわりもあるので一部表現ぼやかしますが、愛〇と奥さんが一緒に住んでたり、別の〇人を裏の土蔵みたいなところに住まわせてたりそれで一家勢ぞろいで飯食ってたりとかで、もうこれを地獄といわずとしてなんとやら。ちなみに私はその一家の中心人物たる長とはロクに話したこともないので顔すらよく覚えていないのですが、なぜか思い出そうとするとその顔が佐分利信になっています。すいません余談ですね、
こうした地獄の恐ろしさは「それが何か?」という人もいるという事であったりします。舌抜かれたり八つ裂きにされたりする地獄は世界中の誰に聞いても「それはキツイわ」と(特殊性癖の方以外には)共感してもらえると思いますが、こうした環境の場合、それが地獄でない人も勿論たくさんいるのですから。
(ちなみにこの種の地獄で私が最も地獄だと思ったのは、松尾スズキ氏の大人計画の芝居で、「田舎に都落ちしたプライドの高い売れない女優が歓迎会で盛大なゲロを吐いてしまい、その後親戚一同と無人島に漂流してしまう」という非常に秀逸で完璧な設定のものです。)
かようなそういう日本人的な土着というかドロドロした世界は個人的には苦手というかもう本当に大っ嫌いなのですが、にもかかわらずそういう世界を描いたものに惹かれてしまうというのは不思議なものです。
いやよいやよも好きのうち?(違う)。考えてみれば、ラブクラフトも最初読んだ時は「なんだ、ホラーの大家の割にそんなに怖くないじゃないか、人間も腸詰にしないし。」みたいなこと思ってたのですが、「異形のもの」というのはモンスター的なスペックどうこうとかより、何をするものではなくただ存在することの恐怖なのだということがわかってじわじわと怖くなってきました。そこには、ラブクラフトがバリバリの人種差別主義者であるということと深くつながっている気がします。
なぜ自分がホラーを好きなのか(ちなみにびっくりさせる系はショッカーというのであってホラーではないのです)ずっと考え続けているのですが、つい最近見た本に「人がホラーを求めるのは不安だから」とあって、なるほどそうかもしれないと思いました。
不安でわからない、理解できないものに人は恐怖を感じます。だからこそその何かをわかろうとしたり捕まえようとしたりするのでしょう。
芥川が感じた、そして彼の命を奪った「ぼんやりとした不安」はプロレタリア文学(方面からの攻撃も含む)だったわけで、今の視点から見れば「何もそんなことで」という事で済んでしまいますが、それはあの時代を体験していないからそう思ってしまうだけのことです。
「わからない」ものは当たり前のようにそこにあり、不安と恐怖は時代と社会を映しながら姿を変え、モデルチェンジし、個人の心の中にさえ住み着いていく…という事なのでしょう。
(ちなみに私が古今東西一番怖かったアンド怖い小説は乱歩の「鏡地獄」です)
「わからないもの」。
「不安」とか「欠落」といってもいいですが、そうした何かをわかろうとする、知ろうとする。
たとえその先に待つのが幸せな結末でなかったとしても。
そうしてあがくことがやはり私は好きなのでしょうし、そういうものを観たいのでしょう。
なぜならそれが生きるという事だとも思うから。
わかりきったようなことをわかったような顔でやるものは、ああ、そうですかとしか思えません。
別にそれは小難しいとかわけがわからないとかいうものだからいい、ということではありません。小津の映画やダウンタウンのコントを見れば、いかに登場人物や製作者が様々なことを考え、話し、葛藤しているかわかるというものです。
…話が夢Qはおろかあらぬ方向へ飛んだまま戻ってきてない気がしますが、一応これも宣伝なんですよ!
無理やりつなげますが、「わからないもの」のベスト3をあげれば、恋愛と殺人は絶対入るでしょう。
なぜ人は人を愛すのか?なぜ人は人を殺すのか?もちろん答えなんて出やしませんが、そこであがく人間とはなんなのでしょう。一番の謎はそこかもしれません。
今回の公演の台本を書いた野宮千尋とはそこそこ長い付き合いでして、公演を観たことも出たことも台本を書いてもらったことも一緒に劇団にいたこともありますが、してないのはセックスぐらいでしょうか。ンムフフフ。
軽い親父ギャグをキメたところで続けますが、彼女の作ったものには必ず「ん?」というところがあります。「わかるわかる…ん?」と引っかかるところがあるのです。「わかるわかると近づいてくる奴には気をつけろ」というのは私がいま考えた格言ですが、安易な共感をストップさせる何かが、野宮の作品にはあって、そこが私は彼女の作るものの面白いと思ってるところなのです。
では、いわゆる「何が面白いのかわからない」という「わからない」と、ここでいう「わからない」の違いとは何なのか。…まあ、それがわかれば苦労しないんですが。やはりそれは「根源」とか「本質」に触れるか、まあもっと簡単にざっくり言えば「興味」を引くかどうかという事なのかもしれないですね。
「本質」への「興味」を引けるようなものになっているか?
そういった面倒なあれこれを考えるのが脚本家の仕事なら、玄関のお掃除をしたり、通訳や弁士をしたり、ちょっとひねくれたとっつきにくい子でも「いや、この子はこう見えて実はいい子なんですよ」的なアレをしたり、ピーコのファッションチェック的なことをしたりするのが演出家の仕事じゃないかなと思っています。
モンペや過保護や、はたまた逆にハートマン軍曹みたいににはならないよう気をつけなくちゃいけないですが。
ギリギリまで気を抜いてはいけないと自戒しつつ、初日の小屋へと向かおうと思います。
というわけで、今書いたようなことはすべて忘れてぜひお越しください。
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